歳を取ったからつまらなくなったのか、時代が過ぎたからつまらなくなったのか。
僕はよくこの二択で悩んでしまう。正解は多分両方なのだけれど。


僕が小学生だか中学生の頃、すなわち今から10年ほど前に、「テキストサイト」と言われるwebサイトが全盛であった。
面白おかしい文章をひたすら乗せていく、という種類のサイトである。
インスタグラムだのvineだのという画像や動画のコンテンツが好まれる今とは逆で、ひたすら文字が中心だ。
特に、黒い背景に白い文字、というスタイルが支配的だった。今でも僕はこのスタイルが恋しくなることがある。
ともかく、インターネットの娯楽が黎明期だった頃、一つの大きな時代を支えた文化である。


その中でも頭一つ抜けて有名だったのが、侍魂というサイトだ。先行者という中国のロボットをバカにする文章が有名である。
robo
先行者


このサイト、当時はとにかく人気がすごかった。12歳かそこらの僕のアンテナに引っかかってきたのだから、小学生〜20台後半くらいまでの幅広い層に支持されていたのだと思う。
僕もすごく笑いながら読んだ記憶がある。

結局、テキストサイトはブログという新しい文化によって駆逐されてしまった。
でも、侍魂をはじめとするテキストサイトは、インターネットにおける娯楽発信の先駆けだった。

さて、先日ちょっとしたきっかけでこの侍魂の文章をもう一度読む機会があった。
ヒットマン事件簿、というタイトルの文章だ。
最後に読んでから実に10年近くが経過していただろう。内容も全然覚えていなかったから、爆笑できるかもしれないと思って期待しながら読み始めた。

するとどうだろう。少しも面白くない。すごい寒々しさを感じた。

文章は自己陶酔と共に展開され、「武勇伝」の形で語られる。
そもそも、エッセイのような文章は自己陶酔を読み手に感じさせてはならない。
読み手が「こいつ、自分に酔ってるな」と感じた時点で、それは読み手を楽しませる文章ではない。自己満足だ。
自己満足な文章は原則として、たくさんの人に受け入れられることはない。


なぜこんな文章が世間で流行っていたのかと考えると、逆説的ではあるが「世間で流行っていたから」だと思う。
自己満足の武勇伝はつまらないのだけれど、一つだけ面白く読ませる方法がある。

書いている人自身に圧倒的なカリスマ性を持たせることだ。


カリスマ性を持っている人の文章は、面白い。
読んでいる側が、彼の文章に勝手に付加価値を持たせるからだ。

カリスマ経営者の本ならば、「なるほど!◯◯社はそうやって成功したんだな!」と思いながら読むから、全てのページに「成功」という重みがついて回る。

言うなれば、書き手によって文章が神格化されるのだ。


侍魂も、そうだったのかもしれない。
「この人は、無敵の人なのだ」と、少年の僕は思っていた。
だから、自己陶酔が凄まじい文章、「俺強い!」的な文章も気にならない。だってこの人はこうやって世間で受けているのだから。



まあなんだか長い文章を書いてしまったけれど、ブームが去るとこんなにつまらなくなってしまうのか、と衝撃を受けたという話です。

あと単純に、やっぱりテキストサイトの文章って子供向けな気がする。独善的で一方的な文章ってどうしてもこの歳になると受け入れがたい。



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